読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ITUYOGA

特定の流派には属さないハートオブヨガという理念を持ったヨガの先生。

弱さは希望の光だと、彼は言った。弱さと強さは別のものじゃない。一つの性質がもつ別の顔だ。

メッセージ

f:id:kasiwabara2013:20161030095516j:plain

この前、仕事でミスをして多くの方、特に上層部に迷惑をかけてしまった。忙しい中で起きたこととはいえ、失礼なことだったし、多くの方に対して申し訳なく思う。そんなショックからしばらく寝込み、金曜日は情けないことに丸一日布団にこもっていた。なんとか回復し、布団を抜け出し、執筆にエネルギーを注げるようになってきた。

コーヒーを丁寧に、じっくり時間をかけて落とす。至福の時。砂糖と牛乳の力を借りてお子様っぽい味に変えられたカフェオレは脳を癒す。たぶん舌だけではない。ぼくは子どもっぽいんだと思う。今回のミスはきっとそういう部分が表に出てしまったがゆえだと思うんだ。

だけど、子どもっぽさや弱さを打ちのめして大人になろうという気はない。きっと誰もが自分の子どもっぽさと向き合い、一生にわたって付き合っていくものだと思う。弱さだってそう。なら、それを隠すんじゃなくて素直に出せる人ってすごくないか?誰もが隠したがるものを、あえて外に出す。

弱っている姿を隠さなかったことで、希望を抱いた

あがったりさがったりを繰り返しながら、日々は続いている。自分にとって嫌なことがあると、その嫌なことばかりにフォーカスをしてしまって「あああ、この人生はクソだ!!」などと思ってしまうこともあるけれど、多分、チャップリンも言う通り『人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ』ということなのだと思う。大事なことは、自分の人生を、自分自身を肯定していこうとする姿勢【ロングショットで眺める余裕】なのだと思う。

弱さは「希望」だ。 - いばや通信

 弱さが「希望」だということは、坂爪圭吾さんの言葉だ。弱さという余白があるから、幸せが舞い込む。多くの助力を得ることができるそうだ。たしかに、ぼくは今回のダウンでいろんな人から励ましてもらったり、気づかいのメッセージをいただいた。それは弱さという余白に舞い込んできた助力そのもの。なんと尊いことだろうか、強くあること以上に弱くいることのほうが希望を目にすることができる。

なんでも一人で片付けられて、強く振舞うよりも、弱さがそこにあることを全面的に肯定する方がすばらしいじゃないか。弱さ=悪ではない。強さと弱さは一つの性質の別の顔なのだと思う。それは神聖な何かの、二つの顔なのだとぼくは思った。強いだけの人間はいないし、強くあり続けることは不可能だ。弱さを認めよう。許そう。

弱さがあることは、究極の強さだ。

助力はときに、自分ではどうしようもないことに立ち向かう力となる。ちょっとした言葉がけでも救われたり、力が湧いてくるものだ。生徒さんから、いや、大切な友人からメッセージが届いた。ぼくの異変に気づき、ささいな変化を見逃さずに心配してくれた。プライバシーに関わりそうな部分を隠して要約するとこういう感じだ。

今日はあえて、先生ではなく「さん」で。

詳しいことは全く知りませんが、ゆうたさん、大丈夫ですか?
ちょっと心配でメッセージしてみました。

うまく言えませんが、少しゆうたさんとお話しできたらと思ったんです。
先生と生徒、という関係ではなく、ヨガを通じで出会った友人のような感覚で。あ、変な意味合いは全くないですから警戒しなください^^;

 ここだけの話、ちょっと泣いた。そんなささいな変化に気づいてもらえたこと、そしてわざわざメッセージをくれたことが嬉しかった。晒していた弱さの部分なんてほんとに僅かだったと思うし、晒そうと思っていたわけでもない。それでも、ちょっとした弱さに声をかけてもらえたことは奇跡だと思う。弱さという余白に、奇跡が舞い込んできた。

もし地に伏せて倒れることを弱さというなら、人に辛さを押し付けていることは強さなのだろうか。くじけてしまうことは悪なのだろうか。弱ることを悪だという人は、強い人なのだろうか。きっと、弱いことも含めて自分を認めることがホントの強さだと思う。こうやって人に見られる場所に弱さを晒すことは、一つの強さ。

先日、仕事のミスからストレスを浴びて、ぶっ倒れる事件があったけど、自分を責めるつもりはまったくない。すでに責められたのだし、自分だけは自分を許そうと思う。弱さを含めたありのままの自分を認めてやろうと、そう心に決めた。

 

神聖なものは、強くあり、弱くもある

ぼくは無宗教だ。キリストもアッラーもよく知らないし、ヨガをやってるからといってシヴァやヴィシュヌを信仰しているわけでもない。でも、神聖ななにかが「そこ」にあることは知っている。理由もわからず泣いてしまうとき、朝日をあびながら一息つくとき、ヨガをしているときに命の鼓動を感じるとき、神聖なものはそこにある。

それらは泣くという弱さだし、命の鼓動という強さでもある。神聖ななにかは形を持たないし、どんなものなのかを言葉にすることはできない。でも、強さと弱さという両方の側面をもっていて、どちらか片方ではない優しさがある。誰にでも開かれていて、とても優しいもの。

弱みを見せることで、手を差し伸べられる

それはシンプルな証明。

いずれ自分が手を差し伸べる勇気となる

希望の光は連鎖する。弱っていることは悪ではない。弱さを見せられることは強さだ。弱さを見せられる強い人に対して、こちらから手を差し伸べられる強さをもてますように。弱っている人を見かけたときに手を差し伸べられる強い人でありますように。全ての人が、自分の持つ強さと弱さの両方を認めて許してあげられますように。

OM shanti shanti shanti.