記事を書いている時にふと、「ソーハムってなんだっけ?」と思い、Googleで調べてみたら満足のいく記事がありませんでした。これはよくないと思い、書籍などを調べてまとめました。
目次から知りたいところへ飛んでくださいまし!
ソーハムとは
ヨガ哲学の中に登場する言葉の一つにソーハムという単語があります。瞑想などに用いられるマントラ、ようはおまじないです。
「私たち人間と、世界のすべてである神ブラフマンは一つだ」という意味が込められています。梵我一如。
ソーハム soham:「私は彼(ブラフマン)である」という確言。サハ・アハム。He I am
ラマナ・マハルシ*1との対話
ソーハムを逆の順番にして「ハンサー」と唱えることもできます。
ソーハムの詳細
- ソー:「それ、彼(ブラフマン)」
- ハム:「私」
「それ、彼」とはブラフマン、世界の全てを表す言葉です。梵我一如の梵。
「私」とはそのまんまの意味。自我ことです。
瞑想として行う
ソーハム瞑想という名前で呼ばれることがあります。
- 息を吸うとき「ソー(彼は)」
- 息を吐くとき「ハム(私だ)」
これを逆にしても構いません。ハンサー瞑想と呼ばれます。
- 息を吸うとき「ハン(私は)」
- 息を吐くとき「サー(彼だ)」
また、「ソーハム」と「ハンサー」の二つを使うこともできます。
- 息を吸うとき「ソーハム(私は彼だ)」
- 息を吐くとき「ハンサー(彼は私だ)」
ソーハムに関するプラーナヤーマ(呼吸法)
- Naham「ナーハム」私はこれではない=呼気
- Koham「コーハム」私は誰か?=吸気
- Soham「ソーハム」私は彼だ=保息
瞑想の結果、行き着いた境地を表す言葉
ひたすらソーハムと唱えても意味はありません。ただの音ですから。意味を理解してひたすら唱えても、一時的に心は安らぐかもしれません。ですが現実世界で辛いこと、ショックなことがあれば必ず現実に向き合わねばなりません。
ですから瞑想の果てに行き着いた境地をどのように表現したらいいのか考えた古代の聖者が「ソーハム(私とブラフマンは一緒やんけ)」という心境に至ったんです。インド哲学の権威、成瀬貴良氏も同じことを述べてます。
世界で起きている辛いことも楽しいことも含めて見ること。スピリチュアルの世界へ逃げ込み、現実から目を背けないこと。そうしたときにする瞑想でこそ、「私はそれだ」という意味が腑に落ちるのではないでしょうか。
瞑想の時の観点
「神と私は異なる」という観点からする瞑想よりも、「神は私である」と瞑想するほうが優れている。
教えの精髄 Upadesa Saram ウパデーシャ・サーラム
「神は私である」=「ソーハム」(「私は彼だ」というマントラに瞑想すること)
- 神と私は異なった別の存在とする哲学を二元論
- 神は私であるとする哲学を非二元論
ハタヨガは後者の非二元論のもとで教えられます。大いなるものと私たちは一つだという観点に立って物事を考えます。
二元論の立場にあるヨガもあります。アシュタンガヨガとかクンダリニーヨガとかが二元論です。階段を登っていき、ゴール(サマーディ、神)に行き着くという考え方です。
どちらが優位かの論議はしません。あなたの気質にあう哲学をお選びください。